はじめに

中世の時代より世界各地で植民地政策を進めて来た「彼ら」は、何世紀にも渡る調査から、極東の小国日本の征服だけは一筋縄ではいかないと分析していた。昔からスパイはたくさん来日している。当時は、宣教師、商人、現在においてはさらに、外交官、軍人、記者、特派員の姿で特権を悪用して活動しているのである。

18世紀、C・P・ツュンベリーは日本人を礼儀正しく勇敢で公正を愛し悪に容赦ないと評した。1872年(明治5年)、日本は、寄港したペルー船マリア・ルース号の奴隷を強制的に解放させるなど、その後、人権問題で何度も欧米を激昂させることになる。そして、日本はあっという間に近代化を成し遂げ日露戦争にも勝利した。予想外の結果に「彼ら」は腰を抜かした。さらに、1919年(大正7年)パリの講和会議で「人種差別撤廃案」を提出したり、台湾、朝鮮、満州、新南群島、南洋群島にインフラ、教育をあたえて驚異的な発展をさせ、欧米の搾取、奴隷化型の植民地政策に真っ向から対抗する手法で勢力を拡大していった。日本は植民地にするどころか「彼ら」白人覇権勢力を直接脅かす容認できない存在になってしまったのである。


1942年 大日本帝国地図

そして、中国では満洲国の目覚しい発展を目の当りにして蒋介石の影響力は後退、親日派政権の樹立を図りクーデターが起きる等、日本の影響力は無視できないものとなって来る。蒋介石は目障りな日本を戦争に巻き込み叩き潰そうとし、利害が一致した米英は蒋介石を背後から支援した。そして、アメリカはヨーロッパ戦線への参戦を実現する為にも日本を挑発し続け、日米開戦となる。しかし、日本は恐ろしいほど強かった、一時「彼ら」は敗戦すら覚悟し戦争を仕かけた事を後悔したほどであった。その為戦争終結後、今後二度と日本が「彼ら」を脅かすことがないよう、勇猛果敢な日本人を、原子爆弾を落として震え上がらせ、骨抜きにする必要があったのである。

戦争が終りかけていたので原爆の開発を急がせ、この貴重な人体実験の機会を逃さぬようにと、ウラン型とプルトニウム型という2種類の異なる原爆を落とし、被害データを収集したのである。
さらに、3発目を東京に検討していた事が、米国国立公文書館に保管されている、ワシントンのノースタッド陸軍戦略航空軍後方司令官からグアムのスパーツ太平洋戦略航空軍司令官に宛てた、1945年(昭和20年)8月11日付の機密電文で確認された。
また、「日本が和平の仲介を期待していたソ連が参戦に転じた事により戦争は終結に向かっていた、原爆投下がなくても1946年(昭和21年)2月半ばまでに終戦を迎えていた。」とする当時の米陸軍省情報機関の極秘報告書も同じく米国国立公文書館に保管されている。
原爆投下が戦争を終結させ、結果として何百万人もの人命を救ったという主張が全くの出鱈目であることは、アメリカ自身が実は一番良く知っていることなのだ。しかし、今日に至るまで補償はおろかただの一度も謝罪をしたことはない。

戦争に勝って「彼ら」は賄賂と暗殺のアメと鞭で遂に日本の占領を果たした、戦後およそ200名以上の日本の各界の要人が暗殺されたという(もちろん、表向きは事件、事故死、病死、自殺等である)。そのままアメリカに併合してしまうのは、人口の3分の1が日系アメリカ人になり、選挙権によって巨大な影響力を持ってしまうので除外された。また、ソ連の参戦時期によっては南北に分断の危険もあったのだが、これも逃れた。結局、泳がせて、金を稼がせて貢がせる、「彼ら」にとって一番おいしい今の形に落ち着いた。

日本の中央銀行(日銀)の金保有量は先進国中決して特別に低い訳ではない。ところが外貨準備高に占める金の割合で考えると、他の先進国の40〜60%に比べてわずか1.7%と極端に低いのだ。
アメリカは日本に金を持たせず、代わりに大量の米国債を売りつけ、その上それを売却することは禁止しているのだ。世界第2位の経済大国とはいっても、日本の外貨準備高はそのほとんどがこの只の紙切れで保有されているのが実体なのだ、これが将来売却できる可能性ははっきり言ってゼロである。
例えて言うならば、クラスでもお金持ちの「日本君」はお小遣いで買いたい物が沢山あるのに、番長の「アメリカ君」がそれを一切許さず、代わりにノートの切れ端をちぎって「借用書、10万円」等と書いて渡しては、毎月無理やりお金を取り上げ、「お前、もしこれを返せなんて言ったら、どんな目に遭うか解ってんだろうな。」と凄んでいる訳である。

また、毎年日米両国政府間で互いにかわされる年次改革要望書というものがある。建前上は、双方の発展の為に、相手国の規制や制度の変革を求め合うものとされているが、その実態は、一方的にアメリカの利益の為に、日本が言いなりになっているのである。過去の要望書を見てみると日本の政策をまずアメリカが要望し、その多くが日本政府に依って実施され、実現していないものは今も繰り返し要望してくる。その実態は要望ではなく指示なのだ、日本政府の政策、日本国民の利益などというものは一切無視して。
今、日本が抱える数々の問題の責任は、自民党は勿論だが、それ以上にアメリカ政府にあるのだ。背後でどのような恫喝、脅迫がなされればこのような事が成し遂げられるのか。第一級のニュースであるにも関わらず日本のマスコミはこれを一切報道しない、広告という命綱を「彼ら」に握られているからだ。また、もし詳細が報道されたら暴動が起きるとも言われている。

「彼ら」にとって、年金では生活できないお年寄りが自殺をしようと知ったことではない、そして、年金の本当の消えた先を知る元厚生事務次官らが国会に招致される動きがあれば事件を装って消せばいいのである。それに、事件を起こせば他の関係者も恐怖に口を噤むのである。
英語のサイトにいくと、過去に「彼ら」に暗殺された可能性の高い各国の政治家、ジャーナリストなどの膨大なリストがある。
一昨年2007年(平成19年)8月24日にロスで病死?した、アロン・ルーソ監督の名前もある。ロックフェラー一族から9・11の11ヶ月前に大きな事件を仕組んでそれを理由に中東で戦争を起こす計画を聞かされた事、彼らの協力者になるように誘われてそれを断った事などをメディアで訴え、「アメリカ、自由からファシズム」という反政府の映画を製作した後死亡。

「アロン・ルーソがロックフェラーとの会話を語った衝撃のインタビュー(日本語字幕版)」
Oct 20, 2007

http://video.google.com/videoplay?docid=-5219614342883260978

先日、アメリカ人の知人と話をしていてケネディ暗殺の真実は隠蔽されているという話題で意見が一致したので、9・11の政府自作自演説についても触れると、「まさか!何の為に?」と絶句し、その後暫くは私を避けて挨拶もしてくれない時期があった。後で分かったのだが怒ったのではなく、職場でも同じ話を聞いてなんと情けない事に恐がって決してもうその話題には触れたがらないのだ。
そういう訳で、彼にはその理由を説明する機会がないのだが。まず、9・11を口実に始めたこの戦争には当然石油利権もからんでいる。しかし、理屈をつけて膨大な税金を戦争に費やす事自体がテロの目的だったのだ、巨額の費用は、出所である国民から巡り巡って最終的には(軍産複合体を通して)「彼ら」の懐に移った訳である。
当初、ブッシュは500億ドルしか掛からないからと言ってこの戦争を始めた。しかし既にその20倍以上、イラク、アフガニスタンに合わせて1兆ドル(米国年間国家予算の3分の1以上)を超える軍事費が費やされた。コロンビア大学のジョセフ・E・スティグリッツ教授(ノーベル経済学賞受賞)によると戦費から人件費を引いた残り82%がボーイング、ロッキード・マーチン、ハリバートンの元子会社ケロッグ・ブラウン&ルート、などの軍需企業の利益となったという。
政府は、双子の赤字も顧みずにこういったお金には糸目をつけず。アメリカは先進国中唯一有効な国民健康保険制度を持たない国であるにも関わらず、年間たった100億ドルしかかからない国民健康保険制度を実施しないばかりか、戦費がかかることを理由に過去5年間で社会保障費などの福祉を2000億ドル以上も削減している。テロという口実が「彼ら」にとってどれほど都合が良いか分かるだろう。
「彼ら」を評して「戦争中毒」という表現が使われている。常時、何らかの口実で戦争を起こして巨額の資金を調達し続けないと、自分たちの支配体制を維持する事ができないのだ。過去から現在に至るまで、彼らの関わった戦争はすべてその為に巧妙に仕組まれたものなのである。
「国家を守る為」、「民主主義を守る為」という美辞麗句を並べ立て、どれだけの人々が死ぬ事になろうが構わずに戦争を起こし、巨額の税金さえ注ぎ込まれれば良いのである。何故あれ程、ベトナム戦争が長引いたのか今でも諸説入り乱れ納得のいく説明がされずにいるが、戦争が長期化するほど「彼ら」の計画は成功なのだ。

世界の富の50%を世界の人口の1%の富豪が所持し、世界の富の1%を世界の人口の50%の貧民が所持すると言われている。富豪たちは、毎日1億円使っても使い切るまで何百年もかかるような資産が何の為に必要なのか。また、アメリカのCEO(最高経営責任者)達は平均で社員の400倍程年収を得ていて、中には1000倍を超えるケースもあるそうだ。
現在、世界の人口の50%以上が栄養失調なのである、この1%の富豪たちが、資産のほんの5%を手放すだけで地球上から飢餓がなくなるという。
こういった狂った社会制度の持続、そして終えることのない戦争。この世界の裏で想像を絶する程邪悪な、そしてかつ強固な意志がはたらいている事に気が付かなければならない。

また、イラク戦争における米兵の死者は4千273名(2009年4月現在)と発表しているが、これは戦闘で即死した者しか戦死者として発表しない、というトリックが使われているそうで、大手陰謀暴露サイトのジェフ・レンズ http://www.rense.com/ に依れば、ベトナム戦争時と同じように戦闘の負傷が原因で死亡した者も含めると7万3千846名(2007年12月現在)ベトナム戦争の5万5千人を軽く超えているという。
イラク民間人の死者も、8万9千8百人(2008年3月現在)と発表しているが、英国の大手世論調査会社ORB(Opinion Research Business)の調査に依ると、122万人を超えている(2007年9月現在)という、南京大虐殺の30万人どころではない。

*   *   *

19世紀後半、ヨーロッパにおいて日本の美術はジャポニズムといって一大ブームを巻き起こした。ゴッホ、ゴーギャン、ベルナールらに依って西洋化されたり、アールヌーボー、アールデコという新種のアートが生まれるきっかけとなったりした。
日本をこのまま放置しておくと世界中の人々が日本の文化の影響を受けてしまう、日本人を尊敬するようになってしまうということで、こういった影響を阻止するため「彼ら」に依る世界的な数々のディスインフォメーション(日本の地位を貶め、辱める宣伝)が、当時から行なわれている。
「彼ら」は、ジャポニズムに対抗してヨーロッパ全土で、日本は未開の野蛮な国で、人食い人種すら居るという情報操作を行ったので(中国には確かに食人の歴史はあるが)、人々は、日本は野蛮人の国で、文化があるのは東京のようなごく限られた地域だけだと思い込んでいた。
デマの流布には合成、捏造写真も多用された。戦前、人が犬を棒で虐待する写真(実は、中国の写真だった)を使い、日本人は野蛮だからと日本に犬を輸出させまいとしたのもその一例である。
当時の、フランスの教科書には、日本という文化の貧しい国にはおよそ料理などと呼べるものは存在せず、ただ粗末な野菜、米を煮炊きしたものを食すのみであると記されていた。
アメリカでは、勤勉な日系人が成功する事を妬み、いろいろ難癖をつけて人権を剥奪し、遂には1924年(大正13年)に「排日移民制限法」を制定して、日本人のアメリカへの移民を禁止した。

現在は、南京大虐殺、慰安婦問題や、捕鯨問題等で因縁をつけ、日本の品位を落とそうと試みている。鯨は可愛いから食べてはいけないのだそうだ、牛や豚は可愛くないということらしい。
2008年(平成20年)度の国際世論調査を見ても、「世界に良い影響を与えている国」英国BBC放送による34ヶ国対象、「世界人権デー、子供の環境調査」NGOセーブ・ザ・チルドレンによる137ヶ国対象、「ブロードバンドの質の国際ランキング調査」英オックスフォード大学院による41ヶ国対象、「世界で最も好ましい観光客」世界最大のオンライン旅行会社、エクスペディアによる全世界対象の10項目中、4項目、その他「世界で最も創業の古い老舗が多い国」等、どれも軒並み日本の1位が続く中で、「環境意識・行動調査」米国ナショナルジオグラフィック協会と、国際世論調査機関グローブスキャンによる14ヶ国中日本11位、などが突然出て来る。
これは日本人が、魚介類を多く食べることを理由に大きく減点したためであるが。徹底したリサイクルごみの分別や環境保護の為の新技術開発など、日本人の環境意識、また保護への貢献度が高いことは良く知られておりこの調査結果はあまりにも作為的である。また、対象国数を少なくして、全体で日本の順位が低い印象を与えようとしていることが窺える、国際何々という組織ははほとんど皆「彼ら」の息がかかっているのだ。まともに考えれば、日本はとっくの昔に国際連合の常任理事国になっていて当然である。
そして、世界的な人口削減と製薬、医療業界の利益の一挙両得の為につくられた病気の数々も「彼ら」の仕業である。薬品、ウィルスの空中散布(ケムトレイル)、飲料水への混入、食品への添加、ワクチン接種、そして治療薬そのもので病気をつくり出しているのだが、「彼ら」のメディア操作は非常に強力かつ巧みである為、民衆の目はスポーツ、芸能やどうでもいい事件にのみ注意が向くように仕向けられているのだ。「彼ら」の言葉を借りれば、「バルブ(メディア)さえ閉じていれば、ガス(真実)が洩れる心配はない。」ということなのだ。

◇ ケムトレイルに関しては、「カリフォルニア州政府が空中散布用インフルエンザ・ウィルスの製造に携わっている。」と、ある州の職員がサンフランシスコの私の知人に打ち明け、「ケムトレイルの散布を見たら窓を閉め、絶対戸外には出ないように。」と注意をしたそうだ。この事は郡や市のレベルでは、一切知られていないそうだ。インフルエンザを流行らせて、インフルエンザ用ワクチンの摂取を促進する事が目的である。
その他にも、種々の病気の原因となる薬剤や大衆の免疫力低下を促す薬剤を撒いたり、気象コントロールを行ったりしている。米国の国会議員らを含む有志たちがケムトレイル散布に関して国を相手取って裁判を起こしているのだが、ほとんど報じられていない。

◇ 2008年(平成20年)3月9日のAP通信によると、全米24の大都市圏で、水道水から様々な薬品の成分が検出された。EPAは、人々が摂取した医療薬が排出され、下水処理されなかった成分が自然界に循環した為だと説明したそうだが、それは有り得ない話だ。

◇ 食品添加物の害毒も計り知れないし、また、何故これ程世界中で、食品への毒物混入事故が相次ぐのか、疑ってみる必要がある。

◇ 2007年(平成19年)11月にメリーランド州で、ワクチン接種を拒否して2300人の子供が登校禁止処分になる騒ぎがあった。何故これほどワクチン接種を拒否する親が増えているのか。また、この件で、何故州政府は最後には懲役刑まで持ち出してこれを強行したのか。
考えてみる必要がある。

◇ 日本のC型肝炎患者のほとんどは、アメリカが輸出したフィブリノゲン製剤によって発症した。患者は何年もの間年間平均約80万円もの治療費を費やした後肝臓癌で死亡する、すぐに死なない病気が「彼ら」にとっては理想なのだ。

◇ エイズもアメリカ発である。ミドリ十字が、アメリカでエイズウィルスのために販売禁止になった血液製剤を日本に輸入したといって責められたが、エイズの為アメリカ国内での販売を禁止した血液製剤を、海外諸国へ輸出する事は許可し続けたアメリカのFDAを、日本のマスコミはなぜ一切責めないのか、まことに不思議である。アメリカではごく一部のメディアであるがこれを取り上げFDAを糾弾した。しかしすぐに立ち消えてしまった。

*   *   *

今回は、日本が今まで外国の知識人達の目にどの様に映って来たのか、それと大東亜戦争の史実はどのように歪められて来たのか、この2点に焦点をあてて見たい。
10年以上前の私は、南京大虐殺や従軍慰安婦の事を否定する意見を聞くと、まだ日本にはそのような軍国主義の亡霊が生き残っていたのかと驚きを禁じ得なかった。しかし、さまざまな資料に目を通していくうちに徐々に考えが変わって来た。
そして当初は、知れば知るほど、私が永住したこのアメリカという国は怖い国だと思ったこともあった。しかし、実はそうではなかった。「彼ら」とはアメリカのことではない、数々の世界的大事件、災害(アメリカは、既に地震発生兵器を所持している)、飢餓、そして過去のアメリカ大統領、要人の暗殺、暗殺未遂もすべて「彼ら」の手に依る。アメリカ人達もまた同じく「彼ら」の被害者だったのである。「彼ら」はアメリカも含め、世界中の政府をやはり「賄賂と暗殺のアメと鞭」で支配してきたのである。ただし、ブッシュ一族は例外である。なぜならブッシュ一族は、その「彼ら」の中の一派が、直接表に姿を現したものであるからだ。

彼らとは「陰の政府(イルミナティ)」のことである。その正体については諸説あるが、私はジョン・コールマン博士の主張する「300人委員会」であろうと考えている。現在、資金力の低下と内部抗争で分裂の危機にあるという噂が真実である事を望みたい。


日本を絶賛した世界の知識人達

日本では16世紀の戦国時代から庶民に対しての「おふれ」が立て看板で掲示されたていた。当時来日した宣教師達が一様に驚いているのが、日本人の教養と識字率の高さである。
また1543年(天文12年)に、ポルトガル人宣教師が2挺の鉄砲を日本人に与えたところ、40年後にはその鉄砲を遥かに凌ぐ高性能の物を量産する事に成功し。1583年(天正11年)にポルトガル人が戻って来ると既にヨーロッパの鉄砲の総数を越える数を所持していた。

ルイス・フロイス 、ポルトガル人、宣教師、1563年(永禄6年)来日
日本製の鉄砲の性能と品質を世界最高と評した。

フランシスコ・ザビエル 、スペイン人、宣教師(彼もスパイであった事は、現在当時の手紙から証明されている)、1549年(天文18年)に来日
彼は日本人を、清貧で名誉を重んじ、今まで出会った異教徒の中でもっとも優れた国民と評した。欧州人の知る武器の全てを製造する事も、扱う事もできるので軍事力で征服するには適さない、と本国に報告している。

C・P・ツュンベリー、スウェーデン人、医師、植物学者、1775年(安永4年)来日
「江戸参府随行記」より
地球上の民族のなかで日本人は第一級の民族に値し、ヨーロッパ人にも劣らず。その国民性は堅実で熱意に溢れ、その他百を超す事柄に関し我々は驚嘆せざるを得ない。政府は独裁的でもなくまた情実にも傾かず、飢餓と飢饉はほとんどない。信じられない事ではあるがこれは事実なのである。
日本人の親切なことと善良なる気質についても驚くべきことで、日本で商取引をしているヨーロッパ人の汚いやり方やその欺瞞に対しても、侮り、憎悪を持たず信義を通す。国民は大変に寛容でしかも善良である。

18世紀、識字率がロンドンで20%程度、パリが10%未満の時、江戸が70%以上だったと言われている。19世紀半ば欧米では識字率が世界最高と思われていたイギリスで男性25%程度、女性ほぼ0%の時、日本は男性40%、女性25%、江戸においては武士100%、男性79%、女性21%だった。
明治になり福沢諭吉「通俗国権論」で幕末の日本の識字率は世界一であると誇っている。考えてみれば世界最初の小説は日本の「源氏物語」1001年(長保3年)である。

マシュー・C・ペリー提督、アメリカ東インド艦隊司令長官、1853年(嘉永6年)に来航
ペリー提督一行も、どの様に日本という国を植民地化するかを分析する為の、偵察隊であった訳であるが。侍の高い戦闘能力を知り、また当時の日本に貸し本屋がいたる所にあり、そして町民から百姓にいたるまで手紙による意思伝達が広く普通に行われている事に驚き、この国の植民地化が簡単にはいかない事を思い知った。また、ペリーは当時日記に、「この国の国民の勤勉さと器用さは尋常ではない、将来工業製品で我が国をおびやかす存在となるであろう。」と書き残している。

タウンゼント・ハリス、初代米国総領事、1856年(安政3年)来日
「日本滞在記」より
日本人は皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうで。一見したところ、富者も貧者もない。これが恐らく人民の本当の幸福というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの国の人々の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、疑わしくなる。私は他のどの国にも存在しない、質素と正直の黄金時代を日本に見い出した。

ラザフォード・オールコック卿、イギリスの初代駐日公使、1859年(安政6年)来日
日本征服戦略のために送り込まれた精鋭の一人で、最後まで日本人を非白人の劣等民族と見下していたが。清潔で手入れの行き届いた町並みに思わず意に反して世界にはこれに匹敵する都はないと感嘆を吐露している。日本人の器用さ、勤勉さ、生活態度も驚嘆に値する、とスパイらしく事細かにそれらを本国に報告している。

アレクサンダー・F・V・ヒューブナー、オーストリアの外交官、1871年(明治4年)来日
「オーストリア外交官の明治維新」より
この国においては、ヨーロッパのいかなる国よりも、芸術の享受・趣味が下層階級にまで行きわたっているのだ。ヨーロッパ人にとっては、芸術は金に余裕のある裕福な人々の特権にすぎない。ところが日本では、芸術は万人の所有物なのだ。
「世界周遊記」より
他の国では、自己の仕事の削減と他人の仕事増は大歓迎。しかし、これでは争いになるから、綿密な契約を作る、しかしトラブルは絶えないだろう。
日本だけである、ニコニコ笑って自分の方がきつく厳しい思いをあえて選択するのは。どちらの精神の方が、戦争と平和という観点からも貴重であるか、明白の事であろうと思う。

バジル・ホール・チェンバレン、イギリス人、言語学者、1873年(明治6年)に来日し、後に東京帝国大学の文学部教師を務めた。
彼は日本人のことを、逞しく健康的な国民で知的にも道徳的にもヨーロッパ人と比較して少しも劣ることなく、これほど技術の習得に優れ、戦争に際しては騎士道的で人道的な国民は他になく、日本の軍隊は規律正しく優秀で世界最強であると評した。高い精神性を持つ日本文化を西洋化するのは間違いで、欧米こそ日本に学ぶべきと説いた。

エドワード・S・モース、アメリカ人で東京帝国大学で生物学を講じた、1877年(明治10年)来日
「日本その日その日1」より
外国人は日本に数カ月いた上で、徐々に次のようなことに気がつき始める。即ち彼は日本人にすべてを教える気でいたのであるが、驚くことには、また残念ながら、自分の国で人道の名に於いて道徳的教訓の重荷になっている善徳や品性を、日本人は生まれながらに持っているらしいことである。
衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然及びすべての自然物に対する愛、あっさりして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正さ、他人の感情についての思いやり、これらは恵まれた階級の人々ばかりでなく、この国では最も貧しい人々も持っている特質である。

アーネスト・F・フェノロサ、アメリカ人、美術研究家、1878年(明治11年)来日、東京大学で政治学や哲学を教えた。美術行政にかかわり、東京美術学校創設などにも尽くした。日本文化に傾倒し、日本人よりも日本美術を愛したと評される。
「中国および日本の特徴」より
日本のとるべき最上の道は、日本が東洋的伝統の理念をしっかりと保持して行くことだと私は信じている。この道こそ日本が人類に対して果たすべき重大なる任務であり、日本こそこの聖火を守る最後の国である。

イザベラ・バード、イギリス、女性旅行家、1878年(明治11年)来日、日本各地を旅した。
「日本奥地紀行」より
ヨーロッパの多くの国々や我イギリスでも、外国の服装をした女性の一人旅は、無礼や侮辱の仕打ちにあったりお金をゆすりとられることがあるが、ここでは私は一度も失礼な目にあったこともなければ、過当な料金をとられた例もない。
群集にとり囲まれても失礼なことをされることはない。馬子は私のことを絶えず気をつかい、荷物は旅の終わりまで無事であるように細心の注意を払う。
私は日本の子どもたちがとても好きだ。私は今まで赤ん坊の泣くのを聞いたことがなく、子どもがうるさかったり、言うことをきかなかったりするのを見たことがない。日本では孝行が何よりの美徳で、何も文句を言わずに従うことが何世紀にもわたる習慣となっている。英国の母親たちが子どもを脅したり手練手管を使って騙したりして、いやいやながら服従させるような光景は日本には見られない。
庶民の振舞いに私は目を見張った。美しかった、とても育ちがよく親切だった。英国と何という違いだろう。老人と目の見えぬ者へのいたわりは、旅の間とてもはっきりと目についた。われわれの一番上品な振舞いだって、優雅さと親切という点では彼らにはかなわない。

アリス・ベーコン、アメリカ人、女性教育者、1881年(明治14年)来日、華族女学校(後の学習院女学校)の英語教師として活躍した。
「明治日本の女たち」より
日本が芸術や造形、色彩を愛する国として欧米で知られているのは職人の功績である。
職人は忍耐強く、芸術家のような技術と創造力で、個性豊かな品々を作り上げる。買い手がつくから、賃金がもらえるから、という理由で納得できないものを作ることは決してない。日本人は貧しい人が使う安物でさえも、上品で美しく仕上げてしまう。一方、アメリカの工場で労働者によって作り出されるあらゆる装飾は、例外なくうんざりするほど下品である。もちろん、日本の高価な芸術品は職人の才能と丁寧な仕事をよく体現している。しかし、私が感心したのはそのような高級品ではなく、どこにでもある安い日用品であった。貴族から人夫にいたるまで誰もが自然の中にも日用品の中にも、美を見い出し大切にしている。

エライザ・R・シッドモア、アメリカ人、紀行作家、世界各地を回って日本に魅せられ、1884年(明治17年)以降6度も来日した。
ポトマック河畔の桜並木は、シッドモア女史からタフト大統領のヘレン夫人への提案で実現したもの。また、彼女は日露戦争時の日本のロシア人捕虜に対する人道的な扱いを題材とした小説「ヘーグ条約(ハーグ陸戦条約)の命ずるままに」を著し、アメリカでの対日理解に貢献した。しかし、1924年(大正13年)アメリカ議会が通過した「排日移民制限法」に憤って母国を捨てスイスに移住した。1928年死亡、日本政府の計らいで遺骨は横浜の山手外人墓地に眠る。

エドウィン・アーノルド、イギリス人、詩人、インドのデカン大学学長、1889年(明治22年)来日、帰英後はデーリーテレグラフ紙の編集者
「ヤポニカ(Japonica)」より
この国以外世界のどこに、人生のつらいことも受け入れやすく品のよいものたらしめようとする広汎な合意、洗練された振舞いを万人に定着させ受け入れさせるみごとな訓令、言葉と行いの粗野な衝動の普遍的な抑制、毎日の生活の絵のような美しさ、生活を飾るものとしての自然への愛、美しい工芸品への心からの喜び、楽しいことを楽しむ上での率直さ、子どもへのやさしさ、両親と老人に対する尊重、洗練された趣味と習慣の普及、異邦人に対する丁寧な態度、自分も楽しみひとも楽しませようとする上での熱心、この国以外のどこに、このようなものが存在するというのか。

ヴェンセスラウ・D・モラエス、ポルトガル人、作家、海軍で世界各国を訪れたあと1889年(明治22年)来日
日本に魅せられ自国籍を返上して日本に帰化、1929年に亡くなるまで一度も故国を訪ねる事はなかった。日露戦争で東洋をロシアから守った日本を軍国主義と批判する欧米に対して、それなら植民地を持っている国家はすべて軍国主義であると反論した。

ロシアから守られたのはアジアだけではなかった、日露戦争のおかげでロシアの支配体制から抜け出ることができた、トルコ、ポーランド、フィンランド、スェーデン、ポルトガル等の北欧、東欧諸国はその影響で今でも親日の国が多い。
特にトルコは自称世界一の親日国家で、私のトルコ人の知人はその事を語り出すともう止まらない。それなのに、日本人はトルコが19世紀からの親日国家である事を何もを知らないと言って残念がる。日露戦争だけでなく、1890年(明治23年)に来航したエルトゥールル号の遭難者を日本人が救助した際、その事後措置を手厚く行った事がトルコでは、何と現在でも語り継がれているのだ。
また、フィンランドには、1992年(平成4年)まで、世界各国の提督の肖像をラベルにしたアミラーリ(提督)ビールがあり、日本は東郷提督になっていた。

小泉八雲(P・ラフカディオ・ハーン)、アイルランド人、新聞記者、小説家、1890年(明治23年)に来日して、その後日本に帰化した。
「知られざる日本の面影(日本瞥見記)」より
将来まさに来ようとしている変革が、この国の道義上の衰退をまねくことは避けがたいように思われる。西欧諸国を相手にして、産業の上で大きな競争をしなければならないということになれば、結局日本はあらゆる悪徳を自然に育成していかなければなるまい。
昔の日本が、今よりもどんなに輝かしいどんなに美しい世界に見えたかを、日本は思い出すであろう。古風な忍耐と自己犠牲、むかしの礼節、古い信仰のもつ深い人間的な詩情。日本はこれから多くのものを見て驚くだろうが、同時に残念に思うことも多かろう。

ハーバート・G・ポンティング、イギリス人、写真家、1901年(明治34年)来日、日露戦争にも従軍
「英国人写真家の見た明治日本」より
日本兵はロシア兵捕虜のところへ駆け寄り、煙草や持っていたあらゆる食物を惜しみなく分かち与えた。一方ロシア兵は親切な敵兵の手を固く握り締め、その頬にキスしようとする者さえいた。私が今日まで目撃した中でも、最も人間味溢れた感動的な場面であった。
松山ではロシア兵たちは優しい日本の看護婦に限りない賞賛を捧げた。何人かの勇士は病床を離れるまでに、彼を倒した弾丸よりもずっと深く、恋の矢が彼の胸に突き刺さっていたのである。ロシア兵は過去のすべての歴史において、これほど親切で寛大な敵に巡り合ったことは一度もなかったであろう。それと同時に、どこの国の婦人でも、日本の婦人ほど気高く優しい役割を演じたことはなかったのではあるまいか。

アルジャーノン・B・F・ミットフォード、英国公使館の書記官、1866年(慶応2年)来日、1906年(明治39年)にガーター勲章使節団として33年ぶりに3度目の来日、その時の「ミットフォード日本日記」より
東郷提督黒木大将らの謙遜と自制心はまさに人々の心をとらえるものがあった、両者ともに誇らしげな様子は全く見られなかった。私が強調しておきたいのは、私の日本滞在中にいろいろな種類の多くの日本人と話をしたが、さきの日露戦争の輝かしい勝利を自慢するかのような発言を一度も耳にしなかったことである。
戦争に導かれた状況と戦争そのものおよびその結果について、全く自慢をせずに落ち着いて冷静に話をするのが日本の人々の目立った特徴であり、それは全世界の人々の模範となるものであった。このような謙譲の精神をもってかかる偉大な勝利が受け入れられたことはいまだにその例を見ない。

ロマノ・ヴルピッタ、イタリア人、ローマ大学法学部卒。東京大学に留学、駐日イタリア大使館一等書記官、ナポリ東洋大学大学院現代日本文学担当教授、1975年(昭和50年)欧州共同体委員会駐日代表部次席代表、後に京都産業大学経営学部教授
1910年(明治43年)に起きた第六号潜水艇の海水侵入事故について
引き揚げられた潜水艇の中で、乗組員皆が取り乱すことなく自分の役目を最後の最後まで果たしながら亡くなっていた。これは世界の驚きだったわけですが(注:当時、外国の海軍に同様の事故があり、乗組員の醜態が世間に知られていたから)、大事なことは彼らが別に英雄を目指したわけでも何でもないということです。そこに、日本人の根本的な美しさがある。日本は何を外国に発信すべきか。私はそうした能動的な姿勢がことさら必要とは思わない。当たり前のこと、つまり日本人として本質を追求して立派な日本人として当たり前に振る舞う。それでいいのだと思うのです。それが世界のモデルになる。
この第六号潜水艇の事故についての当時1910年「英紙、グローブ」の記事
この事件は、日本人は体力的に勇敢であるだけでなく、精神的にも勇敢であることを証明している。このような事は世界に類を見ない。
また、潜水艇と言えば。1942年(昭和17年)5月31日、オーストラリアのシドニー湾に停泊中の米軍大型艦船6隻からなる艦隊に小さな特殊潜航艇3隻に依る奇襲攻撃が敢行された。3隻とも自爆あるいは沈没をしたのだが、彼らの勇気と愛国心に感銘を受けた、当時のオーストラリア海軍シドニー要港司令官、ムーアヘッド・グルード少尉は、我が国にこれらの勇士の千分の一の覚悟でも持てる人が何人いるだろうか、と自国の船1隻と19名の海軍兵を失う被害にあったにも関わらず(まして白豪主義のかの国で)、周りの反対を押し切り自決した敵国の松尾敬宇大尉ら4名の遺体を引き上げ棺を日本国旗で包んで、スイス総領事らも参列し最高位の海軍葬で丁重に弔った。この模様は、ラジオで放送され、オーストラリア全土で感動を呼んだという。そして、4名の遺骨は戦時交換船を通して日本に送り届けられた。
この時の特殊潜航艇は、後の回天とは違い特攻用に設計された物ではなかったが、この任務の内容は、生還することが不可能なものであった。松尾大尉は自ら志願し、遺書を遺して出撃した。

ラビンドラナート・タゴール、インド人、詩人、1916年(大正5年)来日
日本が日露戦争に勝利した時、ベンガル語で短歌を詠んで日本を称えた。後日来日して、日本文化の精神性の高さに感動し「日本紀行」を著した。

ポール・リシャール博士、フランス人、法律家、東洋の精神文化を求めてアジアを目指し、1916年(大正5年)最初数ヶ月の予定で来日したが日本に魅せられ4年間滞在。
分裂し相争う世界を統合する事は日本にしかできないと主張、1919年(大正7年)、パリの講和会議で日本が「人種差別撤廃案」を提出した際も列国の要人に働きかけ協力をし、結果11対5で圧倒的多数決を得た。しかし議長のアメリカ大統領ウィルソンが平然と、全員一致ではなかったからと屁理屈をこねて否決を宣言。国際連盟議会のルールであった多数決に従う事を拒否した。彼は日本人に、植民地政策を転換しない欧米にもう期待する事をやめて、自分たちの力で「アジア連盟」を作る事を進言した。

コリン・ロス、ドイツ人、新聞社の海外特派員、1939年(昭和14年)来日
「日中戦争見聞記、1939年のアジア」より
わたしたちの大型車メルセデスは、日本の狭い道路にとってあまりにも長大で重すぎた。しかし、車が町角の家にぶつかったり、耕作したばかりの畑に深い車輪のあとをつけても、人々は決して立腹した様子は見せなかった。
車が故障で動かなくなったときは、いつもただちにいかにも当然であるかのように、援助の手が差しのべられた。その際謝礼を出そうとすると、彼らはまるで侮辱されたかのように驚きの表情をあらわにして拒否した。日本人は、全世界でもっとも友好的で上品だ。地球上で日本人に匹敵できるほど、親切で礼儀正しい国民はないであろう。

デール・カーネギー、アメリカ人、実業家、作家(鉄鋼王のカーネギーとは無関係)、1953年(昭和28年)来日
人間関係を良好にする秘訣を説いた「人を動かす」は世界で1500万部以上を売り上げ、聖書に次ぐ世紀のベストセラーとなった。来日して、「日本人は、私が生涯かけて発見した人間関係の法則を、既に何百年も前から実践していた」と驚嘆した。

アーノルド・J・トインビー、イギリス人、歴史学者、1929年(昭和4年)来日
「英紙、オブザーバー」1956年(昭和31年)10月28日より
第2次大戦において日本人は日本の為というよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々の為に偉大なる歴史を残したといわねばならない。その国々とは日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が過去200年の間に考えられていたような不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。

アイヴァン・モリス、イギリス人、翻訳家、日本文学研究者
ロンドン大学で「源氏物語」の研究をし称賛、大岡昇平、三島由紀夫などの翻訳を通し日本文化の紹介に努めた。特攻という非合理な攻撃への志願は自発的ではなく脅迫、あるいは洗脳によってなされたに違いないという欧米人の考え方に疑問を持ち。日本人の歴史を丹念にたどり、ひとりひとりの若い特攻隊員にとっては、それが病的な狂信や暗愚とはほど遠い、日本人の古来からの美意識や気性にもとづくものであり、ひたむきな誠実さ、高貴なる精神の発露であったと語っている。

ベルナール・ミロー、フランス人、ジャーナリスト、特攻を深く掘り下げて研究をした。
「神風(KAMIKAZE)」より
本書の目的は、皮相的な見方から一歩踏みこんで西欧から見た神風に、新たな脚光を浴びせることであった。また著者の意図したところは、この日本の自殺攻撃が集団的発狂の興奮の結果などでは断じてなく、国家的心理の論理的延長が到達した点であらわれた現象であり、戦局の重圧がそれをもたらしたものであることを明らかにすることにあった。
このことを、我々西欧人は笑ったり、哀れんだりしていいものであろうか。むしろそれは偉大な純粋性の発露ではなかろうか。日本国民はそれをあえて実行したことによって、人生の真の意義、その重大な意義を人間の偉大さに帰納することのできた、世界で最後の国民となったと著者は考える。
たしかに我々西欧人は、戦術的自殺行動などという観念を容認することができない。しかしまた、日本のこれら特攻志願者の人間に、無感動のままでいることも到底できないのである。

アンドレ・マルロー、フランスの作家、冒険家、政治家、第二次世界大戦中はドイツへの抵抗運動に身を投じた。戦後はド・ゴール政権下で情報相や文化相を務めた。
日本は戦争に敗れはしたが、そのかわり何ものにもかえ難いものを得た。世界のどんな国も真似のできない特別特攻隊である。
スターリン主義者たちにせよナチ党員たちにせよ、結局は権力を手に入れるための行動であった。日本の特別特攻隊員たちはファナティックだったろうか、断じて違う。彼らには権勢欲とか名誉欲などはかけらもなかった、祖国を憂える貴い熱情があるだけだった。代償を求めない純粋な行為、そこにこそ真の偉大さがあり、逆上と紙一重のファナティズムとは根本的に異質である。人間はいつでも偉大さへの志向を失ってはならないのだ。
フランス人のなかには、なぜ若い命をと疑問を抱く者もいる。そういう人たちに、私はいつも言ってやる。「母や姉や妻の生命が危険にさらされるとき、自分が殺られると承知で暴漢に立ち向かうのが息子の、弟の、夫の道である。愛する者が殺められるのをだまって見過ごせるものだろうか?」と。私は、祖国と家族を想う一念から、恐怖も生への執着もすべてを乗り越えて、潔く敵艦に体当たりをした特別特攻隊員の精神と行為のなかに、男の崇高な美学を見るのである。

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私は、出撃時に特攻隊員数名で撮られた写真を何枚か持っているが、どの写真を見てもすべての隊員がまるでピクニックでもしているかのような穏やかで爽やな笑顔をしている事に驚かされる。また、1945年(昭和20年)8月20日、樺太へのソ連軍の違法な侵攻の際、最後の電話交換業務に志願し、民間人が避難するのを見届けた後、ソ連兵からの辱めを避ける為に服毒自殺を遂げた、真岡郵便局の9人の若き女性電話交換手のことも忘れることはできない。

【陸軍特攻 誠 第百十九飛行隊、出撃一時間半前の写真】
(昭和二十年四月二十二日午前八時半頃)

http://akasids.web.fc2.com/sonota/kamikaze.html
彼らは、少年航空兵出身の十八歳から十九歳の十人と学徒出陣の四名で、この写真に笑顔を残してから一時間半後の、昭和二十年四月二十二日午前十時ころ、台湾北部の桃園飛行場から沖縄本島方面に特攻出撃していった。
彼らは五百キロ爆弾を搭載して沖縄本島周辺の敵艦に突入し、敵巡洋艦と貨物船を各一隻を撃沈した。

【Kamikaze, where is the truth? 真実はどこに・・・】

ここに信じてよい事がある。いかなる形の講和になろうとも、日本民族が将に滅びんとする時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に必ずや、日本民族は再興するであろう。

However, this does not even have a trace of chance for success. Then why are we doing this even though there’s no hope? Here’s one thing we can believe in. No matter what form of peace we make. As long as there is history of young people who sacrificed their lives at the crisis of their country to defend it, people of Japan shall revive after 500 or 1000 years later.


http://www.youtube.com/watch?v=HTjvmYHS3Mw

参考サイト: ぼやきくっくり(外国人から見た日本と日本人) http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid384.html

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